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怪獣使いと少年
ウルトラマンの作家たち
切通理作著
普通の日本人にとって、生まれればそれで「日本人」なのであって、ただ生活してるだけで日本社会に参加していると感じるのは当たり前であり、〈民族〉や〈国家〉を強く意識する切迫感はない。だがアイデンティティが不安な人間にとっては、意識的に「何人」かになろうとする必然性がある。(「I 金城哲夫 永遠の境界人」より)
沖縄人として屈折した感情を抱きつつ、その思いを怪獣や宇宙人に託していた金城哲夫、上原正三の二人の脚本家について読み進めるうち、久々に自分自身を省みる機会を得た。
在日華僑として中国人学校に通った私は、中学卒業まで友人も教師も華僑ばかりの環境の中、日本に居ながら中国人としての誇りや民族意識を育んできた。日中間に再度戦争が起きたら自分らはどんな扱いを受けるだろうかなどと、子供心によくシミュレーションもしたものだった。
しかし高校で環境は一変した。当然ながら周りは、殊更「自分は日本人だ」などと思わずに日々を過ごす友人達ばかり。周りからは私も同じ様な存在にしか見えない。今思えば何の不都合もないが、当時はそれまで構築して来た自己を風化させまいと、必要以上に中国人である事を振りかざしていた。大学に入り、社会に出て、その心の鎧は堅さを増していったように思う。
ただ、やがて結婚して子供が生まれ、自分のアイデンティティなどよりも大切な存在ができてからは、そうした鎧の存在自体が少し鬱陶しくなり、今は時々手にとって眺める程度に止めている。
日本のなかで異者として生きる上原にとっての「差別」とは、ある日目覚めてみたら、近所の人たちが石を持って窓の外にいるかもしれないという恐怖だったのだ。(「III 上原正三 永遠の異邦人」より)
(2005/4/1更新)
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