| 図説坂本龍馬
小椋克己・土居晴夫監修
海舟の海軍塾が完成したのは文久三年九月のこと。神戸村の庄屋・生島四郎太夫の斡旋で海舟が購入した旧生田川の西側西国街道に面した八反余の土地に海舟の屋敷と塾舎、厩などが堀と築地で囲まれて設けられた。現在の三ノ宮駅前の三宮センタープラザがその地という。(「神戸の龍馬」より)
龍馬と神戸の関わりは、文久3年(1863)9月に勝海舟の「神戸海軍塾」が開設された頃に始まり、幕府に睨まれた勝が江戸に召還され、「神戸海軍操練所」が事実上の閉鎖に追い込まれた翌年の10月に終わる。年齢で言えば29〜30歳、わずか1年ほどの短い期間に過ぎない。その間、京では八月十八日の政変や池田屋騒動、禁門の変、第一次長州征伐など幕末史を飾る大事件が続発。龍馬もそうした激動の最中で国事に奔走し、ゆっくり神戸に腰を落ち着ける暇はなかったようだ。しかしこの頃苦楽を共にした仲間の多くは、後の亀山社中や海援隊でも龍馬を支え、歴史に名を残すことになる。
操練に勤しむ日々の中で、国事を語りつつ酒を喰らい高歌放吟したであろう若き志士達は、神戸の海を見つめながらどんな夢を描いたのだろうか?
「坂本龍馬」としての活躍は、勝海舟に弟子入りしてから三十三歳で暗殺されるまでの、わずか五年間。その間に神戸で「海軍塾創設」、その閉鎖後は長崎で「亀山社中」結成、それをバックに「薩長同盟」締結を斡旋、さらに慶応三年には土佐藩参政・後藤象二郎と会談し、武力倒幕を避け、大政奉還路線で幕府政治を終わらせることを決める。(三十三分の五に生きた男」より)
(2005/8/28更新) |