| 動物化するポストモダン
オタクから見た日本社会
東浩紀
近代からポストモダンへの流れのなかで、私たちの世界像は、物語的で映画的な世界視線によって支えられるものから、データベース的でインターフェイス的な検索エンジンによって読み込まれるものへと大きく変動している。その変動のなかで日本のオタクたちは、七〇年代に大きな物語を失い、八〇年代にその失われた大きな物語を捏造する段階(物語消費)を迎え、続く九〇年代、その捏造の必要性すら放棄し、単純にデータベースを欲望する段階(データベース消費)を迎えた。(第二章「データベース的動物
5 データベース消費」より)
「オタク」の分析を通じて、80年代以降の日本の文化状況を分析しようというのが本書の趣旨。ああ、なるほど「ポストモダン=大きな物語の終焉」ってこういうことだったのかとよく分かった。要するに、社会を一括りにする共通の価値規範が機能しなくなった今。特に若い世代の間では、各々が自分なりの「萌え要素」を断片的に収集し、その中に閉じこもる社会になりつつあるということ。ただ、それでは「大きな物語」は求められていないのか、というと案外そうでもなさそうだ。
このところ「昭和」(それも特に昭和30〜40年代)が見直され、当時を知らない若い人達までが、「ALWAYS〜三丁目の夕日」的世界観に強く心惹かれているのは、「一生懸命働けば暮らしは良くなる」「技術の進歩は人間を幸福にする」といった“大きな物語”を誰もが信じ、前向きに生きられた時代への無意識の憧れが潜んでいる様な気がする。
ポストモダン=動物の時代においては、世界は、小さな物語と大きな非物語、シミュラークルとデータベースの二層構造で捉えられる。そしてそこでは、深層に大きな物語がない以上、生きる「意味」を与えてくれるのは表層の小さな物語だけである。データベースは意味を与えてくれない。だからこそ九〇年代のオタクたちは、作品を解体し、分析し、再構成する欲望をもっていながら、いや、むしろそれゆえに、作品の表層に宿るドラマに素直に感動していくのだ。(第二章「データベース的動物
9 動物の時代」より)
(2007/12/21更新)
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