| ゲーム的リアリズムの誕生
動物化するポストモダン2
東浩紀
キャラクターの物語からの自律という現象は、物語のほうから見ると、キャラクターがメタ物語的な結節点として与えられているがゆえに、あらゆる物語に対して別の物語への想像力が半ば自動的に開かれてしまうことを意味している。オタクたちは、特定の物語を読みあるいは観ているときも、同時にそこに登場するキャラクターが別の物語に登場する光景をたやすく想像することができる。(第一章14「キャラクターII」より)
前著「動物化するポストモダン」の5年半越しの続編。オタクの文学とも言える「ライトノベル」と「美少女ゲーム」を真正面から文芸批評の俎板に乗せ、ポストモダンな社会における物語の可能性について論考している。
本書の主題は、「物語の力が衰えた世界の中で、物語を語ろうとすればどうなるのか」ということ。その一つの帰結が、「ライトノベル」であり「美少女ゲーム」であると著者は位置づける。私自身はこの両者に全く関心を持たなかった(というより軽視してきた)が、読み手の感情移入をより強く促すための「第三視点=プレーヤー視点」の導入をはじめ、どうやら技巧的に極めて手の込んだものになっているようだ。読者を物語空間に引き込む職人的技能と発想力は、もはや通常の「純文学」と比べて何十倍も進んでいるのかも知れない。でも、やっぱりまだ読む気になれないなあ。
近代の自然主義的な文学においては、読者はキャラクターに感情移入し、キャラクターは物語のなかで生を全うし、物語は現実を反映していると想像された。それに対して、ポストモダンの文学、少なくともその一部の作品に置いては、物語と現実の反映関係が確保できないため、キャラクターの生はメタ物語的な人工環境あるいはデータベースへと拡散し、それに呼応して読者の感情移入の場所も、キャラクターからプレイヤーへと、言いかえれば物語の主体からメタ物語の主体へと移動してしまったのだ。(第二章15「プレイヤー視点の文学」より)
(2007/12/23更新)
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