| サイバージャーナリズム論
「それから」のマスメディア
歌川令三・湯川鶴章・佐々木俊尚・森健・スポンタ中村
ジャーナリズムの定義にとっても、「誰」が行ったかより、「何のために」行ったかが重要になってくるだろう。
それでは、何のためにジャーナリズムがあるのだろうか?
それはやはり「社会をよくするため」だと思う。「社会をよくしたい」という気持ちがベースにある言論活動は、すべてジャーナリズムと呼んでもいいのではなかろうか。(第二章「『プロの記事』はブログより価値があるか?」より)
ネットやブログの隆盛に絡めて語られる「ジャーナリズムの危機」というのは、詰まるところ「新聞社の優位性の危機」に過ぎないことが多い。でもジャーナリズムという言葉の本質から考えると、「新聞社の危機」即ちジャーナリズムの危機、というのはちょっと違う気がするし、これって何となく、「読売ジャイアンツ人気の衰退」を短絡的に「野球人気の衰退」と言いたがるゴーマンな感性と似ている様にも思える。
巨人戦しかTV中継されなかった一昔前とは違い、北海道にファイターズ、東北にイーグルスがあり、福岡ではホークスが300万人もの観客を動員している今日。相対的に巨人戦の視聴率が下がるのは仕方ない話であり、それを短絡的に野球“全般”の人気凋落へ敷衍しようとする論調に違和感を覚える野球ファンは多いはず。「ジャーナリズムの危機」についても同じ。元から新聞に影響されない人々にとっては、新聞の影が薄まったところで特に不都合はないし、さほど世の中が変わって見える訳でもないだろう。
ネット時代のジャーナリストの要件は、(1)自らの考えを発信し、そのことによって他者の共感を得ること、(2)共感の積み重ねによって、自分の記事以外のさまざまな情報の“鑑定人”として信頼を得ること、この二つを満たす人物であることだ。(第八章「『ネット』はいいこと尽くめではない」より)
(2008/1/30更新)
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